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京都観光と京都国立博物館

2009 年 1 月 19 日 月曜日

義政は、守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は、将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになりった。それは長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていた。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。

官僚やその家族の邸宅も大内裏の内部にあり、それらの殿舎は内裏の清涼殿に廊下でつながっていた。 大内裏の周囲は築地の大垣が張り巡らされており、この築地を「宮城垣」または「外の重(とのえ)」という。 門は最も外側に宮城門(みやぎもん)が位置し、内裏外郭の門を宮門(みやもん)、内郭の門を閤門(こうもん)という。大内裏の宮城門は南面に朱雀門、皇嘉門、美福門 北面に安嘉門、偉鑒門、達智門 東面に上東門、陽明門、待賢門、郁芳門 西面に上西門、殷富門、藻壁門、談天門 が構えられていた(平安京全体図参考)。このうち上東門と上西門は大蔵通用門として「屋根を設けず築地を開いただけ」の門であったため、「土の門」=「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」であり、姓氏の土御門家や藤原氏邸宅土御門殿はこの地名に由来している。

しかし、次第に後白河と清盛との間に対立が見られるようになり、清盛は後白河院政を停止して、自らの政権を打ち立てた。これを平氏政権という。平氏政権は、貴族社会の中で成立したが、各地に地頭や国守護人を設置するなど最初の武家政権としての性格を持っていた。平氏政権の支配に対して、貴族・寺社層から反発が出されるようになり、そうした不満を背景として1180年に後白河の皇子以仁王が反平氏の兵を挙げた。この挙兵はすぐに鎮圧されたが、平家支配に潜在的な不満を抱いていた各地の武士・豪族層が次々に挙兵し、平氏勢力や各地の勢力の間で5年に渡る内乱が繰り広げられたが、最終的に関東に本拠を置いた武家政権、すなわち鎌倉幕府の勝利によって内乱は終結した(治承・寿永の乱)。

東京の設置と東幸1867年11月9日(慶応3年)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた。しかし天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された(東京奠都参照)。その後京都への還幸は延期され、明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所の保存を命じた。

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